つくば美術館

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2009年7月15日

高橋一昭さんの抒情的抽象作品

―在仏30年記念展に寄せて―

高橋一昭さんは、1979年、20歳のときに渡仏、今年で在仏30年を迎えている。在仏30年と一口に言うが、おそらく、これまで人に言えないようなご苦労もあったのではないかと思う。しかし、高橋さんの作品には、そうした人間的な苦悩や苦渋を感じさせるものは微塵もない。

魂が傷つけられ、不安な心理状態が、画面上に直截に現れ、暗色や原色の過激な筆法が、画布上にのた打ち回る。これは、ドイツの表現主義の領分だが、高橋さんの作品は、これとは違う。むしろ正反対で、とても知性的で、ある種の音楽的あるいは数学的と言ってもよいような明晰さすら認められる。同時に、心優しく、アンティームな感覚が溢れている。

やはり、フランス的な伝統とでも言うのか、少なくともマティスやボナールなどの最良の芸術にフランス的な伝統を感じる立場からするなら、高橋さんの芸術も、岡鹿之助・長谷川潔、それに茨城県出身の在仏画家・村山密さんなどの芸術と同様、フランス的な伝統を最もよく受け継いでいる日本人画家の一人であると言ってもよいと思う。

しかし知性的・明晰でありながら、もちろん、決して冷たいものではない。きわめて繊細で、むしろ壊れやすく、ある種の<美的はかなさ>を含んだ作品構造をもっているのが高橋さんの芸術ではなかろうか。

高橋さんの色調は、しっくりと落ち着いた深い青緑から明るく軽快な黄緑に至る様々な緑の階調を最も好んでいるようであり、次に黄から橙に至るまさに秋の収穫期を思わせる黄橙の階調を中心とする作品がある。「新緑詩」(2004)は、おそらく前者の傾向を示す代表的な作品のひとつであろうし、「秋の精神」(2008)は、後者の傾向の素直な作品であろう。

それから、もうひとつ、白と黒との明暗の階調を中心とした厳格な精神的世界を指し示す作品もある。これは、全体が、規則正しい正方形の格子状の平面で構成されている作品である。しかし、これは完全な無彩色の世界ではなく、グレーの階調に近づけた水色や、薄紫の色調の格子平面もあり、これらの複数の平面を黒色の強い帯線が枠付けしている。

これは、自然をモティーフにした世界に対して、意志的な精神世界を屹立させようとしている作品であろう。「精神の秩序」(2008)は、まさにそうした作品ではなかろうか。様々な緑や黄橙の階調で自然をテーマとした優しげな抒情的抽象の作品世界に対して、人間における精神の厳格さの表現に眼を向けたものである。

Exposition au musée TSUKUBA

さらに明確な格子状のフォルムではなく、黒に近い暗色の群青や青灰など類似色による盛上げのある最小限の色面や帯を黒地に重ねるように構成・分割した「詩聖」(2008)や「黙示」(2007)、「覚醒」(2008)のようなタイプの作品がある。これらにおいては、震えるような手書きの朱線1本のみが暗色の中での僅かなアクセントとなっている。これは、瞑想を誘うような暗く奥深い世界であり、何か重い扉の前に佇むような印象を受けるが、こうした、いわば東洋哲学を思わせるような瞑想的・宗教的作品にも、単に重々しさというものよりも、むしろ何か繊細な心優しさを感じさせるところが高橋さんの作品の特徴ではなかろうか。

これらの作品を、制作年代順にやや注意して見ていくと、高橋さんの作品世界は、自然的なモティーフを中心とした緑や青、そして黄や橙の世界から、次に暗色が支配する精神的・瞑想的な世界へ移行し、沈潜していったというのでは、必ずしもない。むしろ、氏の作品制作は、相互の世界に同時並行的に行きつ戻りつしながら、複線的に、もしくはポリフォニックに、進行または深化していくようである。

それは、いつも内省的な思索だけの世界に浸っているだけでは息苦しくなってしまうのと同様であり、そんな時は再び自然の世界に身を置いて新鮮な大気を吸い込み、陽の光を浴びたくなるというような健康で自然なバランス感覚が高橋さんの作品にはあるからなのだと思う。だから、「森の起源」のような清新な作品が、「詩聖」や「覚醒」といった哲学的・形而上学的な作品と同年の作品であることは、決して珍しいことではないのである。そればかりか、高橋さんの制作活動は、抽象作品のみならず、具象作品の制作も同時並行的に進められ、常にいくつかの世界を往還しているのである。さらに、そのタイトルからも窺われるように、高橋さんは、おそらく詩人でもあり、言葉の世界と造形の世界とも往還しているのだと思う。

こうした多様な創作活動の中で生まれた「森の起源」は、森の葉の揺らぎや木漏れ陽の明滅を思わせる作品だが、同時に様々な帯状の白い縦線が樹木の遠近を連想させるかのように自然なリズムをもって配列されている。あるいは、緑の空間は、あたかも幾つかの白い窓枠から見られたように、心地よく区切られている。従って、この白い鍵盤を思わせる帯状の線は、具象的な樹木の遠近を連想させる残像的な空間であると同時に、自然な揺らぎや律動そのものの配列のように、もしくは、それらが<記憶>された緑の世界を白く縁取る窓枠でもあるかのように、見る人によって様々に見えてくるのである。

高橋さんの抽象作品は、総じて、決して難解なものではない。むしろ、きわめて素直で繊細かつ清潔な、みずみずしい抒情的な世界を志向したものである。同時に緻密であり、潔癖である。作品のタイトルも詩人的な感性をもって作者が常に憧れ、そこに歓びを見出しているような理想の内面世界を示唆している。自己の内面の調和を記す言葉がいつも慎重に選択されているように思われるのである。

端的にいうと高橋さんの作品タイトルは、作者に詩的=絵画的イメージを触発する言葉の組合せによって構成されており、それは作者が思い描いている理想的な精神世界のプリズムの一面を常に何らかの形で象徴している言葉であるから、決して作品の具体的なイメージを裏切らない。

高橋さんの緻密さや潔癖さは、その作品のみならず、様々な思索を巡らせた、手書きのノートにも見出せる。これは、現代の画家たちにはちょっと珍しいような、隅から隅まで、小さな文字で規則正しく、びっしりと書き込まれたそれ自体作品のようなノートである。人によって、これは、あのレオナルドの手稿(高橋さんは実際レオナルドに大いなる関心を持っているようだ)を思い出させるかもしれない。今回の展覧会では、このような手書きのノートもおそらく展示されるのではなかろうか。そして、もちろん幾つかの新作も発表されるはずである。

日本において、在仏30年の高橋さんの存在を知る人は、未だ必ずしも多いとは言えないかもしれない。その意味で、今回の高橋さんの作品は、多くの人たちにとって初めてということになると思う。しかし、熱心な少数の人々が、氏の故郷にはもちろんのこと、既に県内外にもいらして、この度の新作を加えた大きな展覧会の開催に結びついた。今回のこの個展が日本において氏の作品を広く知らしめる重要な契機となれば、つくば美術館在職時代に氏の作品を知った私としては、まことに嬉しく、この展覧会の成功を祈らずにはおられないのである。 

舟木 力英
茨城県近代美術館学芸専門員

Exposition au musée TSUKUBA
Exposition au musée TSUKUBA
Exposition au musée TSUKUBA